この記事の要点

  • 一日三食が日本で定着したのは、江戸時代中期の元禄年間(17世紀末〜18世紀初頭)以降とされています
  • 奈良時代・平安時代の食事は朝夕の一日二食が基本で、労働の重い人だけが間食で補っていました
  • 二食から三食へ変わった理由には「明暦の大火の復興工事」説と「菜種油の普及」説があり、いずれも事典類に記載された説として紹介されています

一日三食が定着したのは、江戸時代の元禄期以降

「一日三食は昔からの当たり前」だと、なんとなく思っている人は少なくありません。しかし日本で一日三食が習慣として広く定着したのは、江戸時代中期の元禄年間、おおよそ17世紀末から18世紀初頭にかけてのことだとされています。江戸幕府が開かれてからおよそ100年ほど経ったこの時期に、それまで一日二食が基本だった食事のかたちが変わっていきました。

この記事では、古代・中世の一日二食の暮らしから、元禄期に三食へと移っていった経緯、そしてその後の近代栄養学とのつながりまでを、公的機関や図書館の調査資料をもとに順を追って見ていきます。歴史のなかで食事回数がどう変化してきたかを知ることは、いまの自分の食習慣を少し柔らかく見つめ直すきっかけにもなります。

古代・中世の日本人は「一日二食」が基本だった

結論から言うと、奈良時代や平安時代の日本人にとって、食事は朝と夕の一日二回が普通でした。三食という発想自体が、まだ一般的ではありませんでした。

朝と夕、二回の食事が原則だった理由

公益社団法人米穀安定供給確保支援機構の解説によると、奈良時代・平安時代の食生活では朝夕の一日二食が普通であり、一日三食が定着して習慣化したのは江戸時代に入ってからだとされています。当時の社会では、日の出とともに活動を始め日没とともに一日を終える暮らしが基本で、食事の回数もその生活リズムに沿ったものだったと考えられます。灯りを得る手段が限られていたことも、活動時間そのものを日中に集約させる一因だったとみられます。

労働の重い者には「間食」が別にあった

一日二食が原則だったとはいえ、誰もがそれで足りていたわけではありません。同じ資料では、農作業など体力を使う労働に従事する人については、二回の食事だけでは足りず、間食で補っていたことが紹介されています。間食とは、正規の食事と食事の合間にとる軽い食事のことです。この間食は、のちに食事回数そのものが増えていく過程とも無関係ではなかったと考えられています。

なぜ二食から三食に増えたのか——語られてきた二つの説

二食から三食へと変わった理由については、単一の決定的な史料があるわけではなく、複数の事典が示す説として語られてきました。代表的なものが、明暦の大火にまつわる説と、菜種油の普及にまつわる説です。

明暦の大火と、復興工事が生んだ「昼の食事」という説

国立国会図書館のレファレンス協同データベースに掲載された愛知学院大学図書館情報センターの調査事例では、『図説江戸時代食生活事典』『図録近世武士生活史入門事典』といった文献をもとに、江戸時代中期の元禄年間に一日三食が定着したとする複数の事典の記載がまとめられています。そのなかで語られてきた説のひとつが、明暦の大火の後の復興工事に関わるものです。明暦の大火とは、明暦3年(1657年)に江戸の大半を焼いた大火災のことです。この大火のあと、江戸の町を建て直す大規模な復興工事が長期にわたって続き、そこで働く職人や人足たちに、朝夕の二食に加えて昼の食事が提供されるようになった、という説が伝えられています。

同じくレファレンス協同データベースに掲載された堺市立中央図書館の調査事例では、激しい労働に従事する人への間食の提供が次第に固定化し、それが昼食(中食)や夜食へと変化していったという経緯が、複数の食生活史文献を根拠に整理されています。本来は臨時の間食だったものが、労働の場で日常的な食事として定着していった、というのがこの説の骨子です。

菜種油の普及が夜の時間を延ばしたという説

もうひとつ語られてきたのが、菜種油の普及によって夜の活動時間が延びたという説です。同じレファレンス協同データベースの調査事例では、菜種油が広く出回るようになったことで行灯などの灯りが手に入りやすくなり、日没後も起きて活動できる時間が長くなった結果、夕食とは別に夜食をとる習慣が生まれた、という説が紹介されています。活動時間が延びれば、それに応じて食事の回数が増えるのは自然な流れだったとも考えられます。

いずれの説も、事典や文献にそう記載されているというかたちで紹介されているものであり、どちらか一方が唯一の正解と断定されているわけではありません。両方の要因が重なりながら、二食から三食への移行が進んでいったとみるのが実情に近いのかもしれません。

元禄期、武士から庶民へと三食が広がった道すじ

一日三食は、すべての身分に一斉に広がったわけではありません。レファレンス協同データベースの調査事例が示す事典の記載を見ると、身分によって定着の時期に差があったことがうかがえます。

公家・武家で先に定着していたこと

事典の記載によれば、一日三食は公家や武家といった身分の高い層で先に定着していたとされています。経済的な余裕があり、労働のために食事回数を増やす必要が薄かった層でむしろ早く定着したという点は、労働の現場から広がったとされる二食から三食への移行の経緯と対をなす、興味深いところです。

庶民に広がったのはさらに後だったこと

一方、庶民層に一日三食が広がったのは、公家・武家に定着した時期よりもさらに後のことだったと事典には記載されています。都市部の職人や人足の間で昼の食事や夜食が固定化していった流れと、公家・武家の間で先に定着していた三食の習慣とが、時間差を伴いながら合流し、元禄期からその後にかけて社会全体に広がっていった、という道すじが浮かび上がります。

「一日三食」を後押しした、もう一つの転機——近代栄養学の誕生

江戸時代に定着した一日三食という習慣は、明治以降、近代栄養学の視点から改めて位置づけ直されることになります。

佐伯矩と栄養研究所・栄養学校の始まり

栄養学の創始者とされる佐伯矩は、1914年に「栄養研究所」を創設し、1924年には栄養指導者を養成するための「栄養学校」を設立しました。佐伯矩は、栄養は健康・経済・道徳の基礎であるとする「栄養三輪説」を唱えたことでも知られています。江戸時代までは生活リズムや労働の必要から形づくられてきた食事回数が、近代に入ると科学的な栄養研究の対象として扱われるようになっていった、という流れです。一日三食という枠組み自体は江戸時代にできたものですが、それが「体に良い食べ方」として意味づけられていく過程には、こうした近代栄養学の成立が関わっていたと言えます。

歴史を知ったうえで、いまの食事回数をどう考えるか

控えめな量の和食の膳を朝の光の中で描いた淡彩イラスト 回数よりも、自分の生活に合わせて見つめ直す

一日三食の歴史をたどってわかるのは、それが太古からの絶対的な決まりごとではなく、江戸時代の元禄期以降にかたちづくられた、比較的新しい習慣だということです。江戸時代にはほかにも、儒学者の貝原益軒が『養生訓』のなかで日々の暮らし方について記すなど、食べ方を含めた養生への関心自体は当時からありました。食事の回数もまた、そうした暮らし方の工夫のひとつとして積み重ねられてきたものだと捉えることができます。

「一日三食が正しい」ではなく「比較的新しい習慣」として捉える

一日三食と一日二食のどちらが体に合うかは、生活リズムや仕事の内容によって個人差があり、一概に断定できるものではありません。ただ、三食という回数そのものが歴史的には一度も動かなかったわけではなく、状況に応じて変化してきたという事実を知っておくと、いまの自分の食事回数を「守るべき決まり」としてではなく、生活に合わせて調整してよいものとして、少し肩の力を抜いて見つめ直せるのではないかと思います。甘いものとの付き合い方の変遷に関心がある人は、甘味の千年史をたどった記事もあわせて参考にしてみてください。不調が形になる手前の日々をどう整えるかという視点については、未病という考え方を紹介した記事でも取り上げています。

よくある質問

Q:一日三食は昔から当たり前だったのですか? そうとは言えません。奈良時代・平安時代の日本人は朝夕の一日二食が基本で、一日三食が定着したのは江戸時代の元禄年間以降とされています。歴史的に見ると、三食は比較的新しい習慣です。

Q:江戸時代以前、武士や農民は何回食事をしていましたか? 基本は朝夕の一日二食でしたが、農作業など体力を使う労働に従事する人については、二食に加えて間食をとっていたことが資料に紹介されています。この間食が、のちに昼食や夜食へと固定化していく流れにつながったという説もあります。

Q:一日三食と一日二食、どちらが体に良いのですか? どちらが優れているかは一概には言えません。食事回数の是非については個人差があり、歴史的に見ても状況や時代に応じて回数が変化してきた経緯があります。ご自身の生活リズムに合わせて考えるのがよいと思います。

六角門は現在、京都で養蜂を軸にした健康ブランドの立ち上げに向けて準備を進めている段階です。まだ蜜蜂を迎える前で、巣箱も商品もこれからですが、食や暮らしの歴史を調べるなかで見えてくる「ととのえる」というものの考え方を、少しずつ言葉にしていきたいと考えています。これから確かめていきたいことは、まだたくさんあります。

「いつから」の答えが資料ごとに違って見えるときの読み分け方

一日三食の始まりを調べていくと、「元禄から」「江戸時代から」「もっと前から」と、資料によって答えが少しずつ違って見えることがあります。これは誰かが間違っているというより、問いの立て方がそろっていないことが多いのかなと思います。読み分けるときの目安は、次の三つです。

  • 「始まり」と「定着」のどちらを言っているか:きっかけとされる明暦の大火は1657年、定着したとされる元禄年間は17世紀末からで、両者のあいだには一世代ぶんほどの開きがあります。昼の食事が現れた時期と、それが当たり前になった時期は、分けて読んだ方が混乱しにくいと思います。
  • 誰の食事の話か:公家・武家と庶民では時期がずれるので、主語が書かれていない「三食になった」は、どの層の話なのかを確認したいところです。同じ庶民でも、都市の職人と農村とでは事情が違っていた可能性があります。
  • 何を「一食」と数えているか:間食を食事に含めるかどうかで、回数は変わります。二食と間食の暮らしと三食の暮らしは、実際の食べ方としては地続きだったとも考えられます。

「一日二食はいつまで続いたのか」という問いも同じで、ある年を境に一斉に切り替わったわけではなく、身分や地域ごとに少しずつ移っていったと捉えるのが無理のない読み方かなと思います。

言葉に残る、二食の時代のなごり

食事の回数の変化は、ふだん使っている言葉からもたどれます。

たとえば「おやつ」は、昔の時刻の呼び名である「八つ時」にとった間食に由来すると一般に説明されています。朝夕の食事のあいだを軽い食べもので埋めていた暮らしが、言葉のかたちで残っていると見ることもできそうです。

本文に出てきた「中食」という言い方も手がかりになります。朝と夕のあいだにとる食事だから「中」の食事と呼ぶわけで、朝夕の二回が基準だったことが、名前そのものに映っていると考えられます。朝餉・夕餉という古い言い方が対になって語られやすいのも、同じ流れで捉えられるかもしれません。

ただし、語源は諸説あるものが多いので、言葉だけを根拠に時期を決めるのは避けた方が良いと思います。事典の記載を補う材料として見るくらいが、ちょうどよい距離感かなと思います。

自分で確かめ直したいときの調べ方

この記事で頼りにしたレファレンス協同データベースは、誰でも無料で検索できます。気になった点を自分で確かめるなら、次の順で進めると迷いにくいと思います。

  1. キーワードを変えて検索する:「一日三食」だけでなく、「食事回数」「二食」「中食」「間食」など、言い方を変えて試します。図書館ごとに事例の題名の付け方が違うためです。
  2. 回答よりも参考資料の欄を見る:どの事典の、どの項目が根拠になっているかが書かれています。複数の図書館が同じ事典を挙げている場合は、説が複数あるのではなく、一つの記述が繰り返し引かれているだけという可能性もあります。
  3. 事典の記述と当時の記録を分けて考える:事典は後世の研究者がまとめたもので、当時の日記や記録そのものではありません。「事典にそう書かれている」と「当時の記録で確認できる」は、別の段階として扱った方が安全です。
  4. 近くの図書館に相談する:公立図書館のレファレンスサービスでは、こうした調べものの相談を受け付けています。手に取りにくい事典類は、ここを経由するのが近道かなと思います。

つまずきやすいのは、ネット上の記事同士を見比べて「多くの記事がそう書いているから確かだ」と判断してしまうことです。元をたどると同じ事典に行き着くことが少なくないので、記事の数よりも、根拠になっている文献の数を数える方が実態に近づけると思います。